はじめまして、山村 愛(やまむら めぐみ)です。
プロフィールをご覧いただき、本当にありがとうございます。
とってもうれしいです。
ここでは、私が骨肉腫と診断され絶望し、ありとあらゆるもの全てが馬鹿馬鹿しいと思っている中で抗がん剤の治療が始まり、あることがきっかけで前向き人生に激変!そしてついに骨肉腫を克服し、笑顔で充実した毎日を過ごす現在に到るまでのお話しをさせていただこうと思います。
病気になる前の私
幼い頃から、祖父ゆずりの足の速さが自慢で、体育の成績は常に最高評価!
幼い頃からクラッシックバレエを習いながら、陸上部とバスケットボール部を掛け持ちしていました。
そして、勉強もそこそこできる方だったんです。
今振り返ってみると、とても恥ずかしいんですが、プライド、それなりに高かったと思います。
別に、何ができるってわけでもない自然豊かな田舎育ちの女子なのに、プライドだけは・・・汗
そして、どんどん痛くなっていく
それは、私が22歳のある日のことでした。
(???)
(ん???)
ある日、右の腰に違和感を覚えたんです。
(腰が・・・気になる・・・・・。)
はじまりは、ここから。
でも、そのまま数ヶ月放っておきました。
そしたら、痛みは日に日にどんどん増していきました。
「腰痛?ねぇねぇ、腰痛ってどんな感じなの??」
そんな質問を、腰痛持ちの友人に投げかけるくらい、腰痛がどんなものなのかまったく知らない腰痛と無縁の人生でした。
(これって、一体なんなんだろう・・・)
そう思うばかりで、時間は刻一刻と過ぎていきました。
人生のどん底に向かって転がりはじめる
さすがに痛いなーって思っていたある日、
(整体とかさぁ、行ったらいいんじゃない?)
なーんてひらめいて、フリーペーパーで見つけた整体院に人生初めての予約をしました。
『整体に行ったら治る』
そんな単純なひらめきが私の人生を大きく変えることになるとは・・・・・
この時、思いもよりませんでした。
整体での治療を無事終えて帰宅し、着替えていると、鏡に映っていた自分の姿に目が止まりました。
え・・・・・
ナニコレ・・・・・
あの、痛かった右側の腰がボコン!と腫れていたんです。
時が、止まりました。
それから、すぐに評判が良いと聞いた整形外科専門の大きめの病院へ行きました。
でも、この時ですら私は、
(湿布出されるくらいでしょ)
って思ってたんです。
ところが、撮影したレントゲンを診た先生は、焦っていました。
先生「今すぐ、MRI撮るから!」
この時の私、すでに痛みがかなりあって、MRIの撮影の時間ですらじっとしていることが出来ないレベルでした。
「じっとして!」
って、検査技師さんたちに言われるんですが、じっとしてなんていられないんです。
それくらい、痛かった。
そして、なんとか撮影し終わったMRI画像を診た先生は、深刻そうな顔で、
先生「僕たちには何かはわからないけど、確実にそこに何かがある。今すぐ紹介状を書くからそれを持って紹介先の病院に行きなさい。」
と言いました。
病院を出た私が手にしていたものは、紹介状1通。
湿布なんてくれなかった。
そのことを、その日のうちに東京に住む母に電話で伝えました。
母「紹介された病院に行くより、こっち(東京)の病院に行こう。」
でも、行こうって言ったって、なんのツテもなかったんです。
今みたいに、PCも持ってなかったし、スマホ時代でもない。
だから、本屋さんで本を何冊か購入して、どこの病院ががいいのか手探り状態で探しました。
そして、いくつか候補の病院を決めて、レントゲンを抱えて東京へ。
(これで助かった!)
そう思ったのも、つかの間、東京の大きな病院の先生が私のレントゲンを診て
先生「すぐに紹介状書くから!」
(ここでもダメなの・・・?)
不安でしかありません。
泣きたかったです。
下へ下へ、どんどんスピードを加速させながら転がり落ちて行く・・・・・
骨肉腫と余命宣告
その次の日、紹介状とレントゲンを抱えて紹介先の病院へ行きました。
それが、私と主治医の先生との出会いです。
整形外科に腫瘍専門の先生がいるということを、その時初めて知りました。
先生「ん〜、詳しいことは、この腫瘍の細胞を採取して検査に出して見ないとわからないけど、今のところ見る限りでは良性の骨腫瘍の可能性が一番高いかな。まぁ、検査して悪性ってこともなくはないから、とりあえず検査をしよう。」
そう言われて、検査のための入院の予約を取って帰りました。
(そうか、良性なんだ。よかった。)
ホッとして帰宅しました。
そして、その後、検査のための手術を受け、結果を聞きに再び東京へ行きました。
そこで、どんな結果が待ち受けてるとも知らずに・・・・・
母と一緒に診察室に入ると、先生の顔はにこやかではありませんでした。
主治医の先生は、その世界でトップに君臨する先生のところまで私の検査結果を一式持って聞いてきたと言いました。
それくらい診断が難しかったそうです。
でも、その結果、
「これは、完全に骨肉腫だっていう診断に至った。」
「骨肉腫の治療には抗がん剤治療が必要になってくるんだけど、とても辛い治療だから自ら命を断つ人も少なくないし、僕たち医師が強制できる治療でもない。」
「もちろん、治療するかしないかは自分で選べるけど、抗がん剤治療をしなかったら、2年は持たないと思う。よく考えて、自分で決めなさい。」
と、なんの心の準備もないまま、その場で余命宣告を受けました。
ドラマと全然違う・・・・・
ねぇ・・・・・本人に伝えますか?の家族と先生とのくだりは??
と、後になって思ったんですが、そんなのすっ飛ばしての余命宣告でした。
最近、先生に、
「なんでさぁ、いきなり余命宣告したの??」
って問い詰めたんですが、
先生「え?僕、そんなことした??ひどいな〜笑」
って言ってました・・・笑
私としては、隠されるよりずっとよかったなって思います。
でも、その余命宣告をされた時は、ガラガラとなにかが音をたてて崩れていくような感じ。
まばたきをすることさえも、忘れていました。
「考える時間をください。」
先生にそう言って、院内の喫茶店に行ったんです。
たしか、そう、いちごミルクジュースを頼みました。
味なんて、まったくしなかった。
ただただ、怖かった。
(なに?私って死ぬの?)
(私が?今ここで自分で決めるの?)
(持って2年弱って・・・・・)
(抗がん剤って・・・まさか笑)
そして、しばらく考えて、泣きながら、
「私・・・・・治療するから。」
と、母に言いました。
それから、再び診察室に戻って、先生に
「治療します。よろしくお願いします。」
と、伝えました。
23歳の秋。
晴れ渡った空に、金木犀が冷たく香る日のことでした。
すべてがバカバカしい
余命宣告からすぐに、抗がん剤の治療がはじまりました。
先生の予告通り、本当に辛くて辛くて。
もし、副作用で髪が抜けはじめたら坊主にするって決めてたんです。
だから、脱毛が始まったその日にバリカンで坊主にしました。
坊主の上に、吐いても吐いても止まらない。
(なんで、私なんだよ・・・・・)
(私、悪いことなんてしてないじゃん。こんな辛い思いしなきゃならない意味がわかんない。)
(この世の中に悪いことしてるヤツなんていっぱいいんじゃん。そういうヤツらがなればいい。)
毎日毎日、病室のベッドの上で、そんなことばかり考えていました。
”誰が”とかじゃないんです。
もう、すべてがイヤでイヤで、憎くて憎くて、仕方なかった。
ほら、私ってそこそこプライド高かったって言ったじゃないですか。
23歳、同級生たちは大学を卒業して、なんか、こう、社会に羽ばたいて、今ごろは充実した毎日を過ごしてるはずって思っちゃったんです。
(こんなこと、絶っっっっっ対に誰にも言えない!!!!!)
(誰にも言わない!!!!!)
そう思って、誰にも言わなかった。
(みんなはどんどん先に進んでるのに、私だけが置いていかれてる。)
(こんなことになって恥ずかしい。)
(誰かに言ったら、絶対すぐ噂が広まる。)
まるで、自分の時計だけが止まってしまったかのようで、心から笑える日はなくなりました。
「走んなくていいじゃん。」
そして、骨肉腫の手術を受けるときに先生から、障害者になるという説明を受けました。
(・・・・・え?)
(障害者に?・・・・・私が?)
(抗がん剤の治療だけでも耐えられないって思ってるのに、この上さらに、まだあんの?)
(もういい加減にしてくれよ・・・・・)
一切、現実を受け入れられませんでした。
そして、そんな気持ちのまま10時間に及ぶ、骨肉腫の手術を受けたんです。
手術室に行く前に、病室前の廊下を走ってみました。
(うん。)
(いつも通り、走れた。)
その手術の翌日、
「トイレに行くために車椅子に乗るからねー。」
って、看護師さんたちが何人か来てくれて、リハビリ担当の先生と一緒にベッドから車椅子に移動するのを介助してくれました。
「はい、じゃぁ、右足少しあげて」
(・・・・・)
(・・・・・え。)
(・・・・・足ってどうやって上げるんだっけ?)
絶句です。
ただ足を少し上げる、その上げ方すらわからなくなっていました。
私、相当の負けず嫌いです。
悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて。
悔しくてたまらなかった。
夜、誰にも聞こえないように枕に顔を押し当てて泣いた日は、一体何日あっただろう・・・・・
数え切れません。
その、私の入院していた整形外科病棟には、骨折や人工骨の手術をした患者さんに混じって、抗がん剤治療をしている患者さんが数人いました。
(同じ経験をいている人たちにしか、私の気持ちはわからない。)
そう強く思っていました。
その中でも、一番仲良しだったのが、モデルみたいに長身でかっこよくて、おんなじ杖をついたお兄さんの”あっちゃん”。
あっちゃんとは、リハビリもいつも一緒。
お互い負けず嫌いだから、最終的に足につけるリハビリ用のウエイト(重り)は2人とも片足に5kgずつでした。
いつも、夜中になると
「今から歩くぞ。」
って、メールして病室を出て待ち合わせ。
そして、真っ暗な病棟を坊主2人が深夜徘徊(リハビリ)。
坊主頭にスウェットで同じ杖、2人並んで鏡に映った姿を暗闇で見て、
「おんなじ部族だな。笑」
「俺ら、健常者にはぜってぇ負けねぇぞ。」
そう、約束しました。
私が、杖をつき始めて、初めて外出許可がおりた日、
「楽しんでこいよ。」
そう、笑顔で見送ってくれたあっちゃんに
「あったりまえじゃん!」
って、気合い十分に笑顔で返事をした私。
そして、母に連れられて、大好きな池袋に颯爽と出かけて行きました。
外の世界、本当に楽しかった。
そして、もう病院に戻るという夕方、池袋の駅の構内で、
「切符買ってくるから、あんたここでちょっと待ってて。」
母にそう言われた私は、駅の柱にもたれかかって、ぼーっとしていました。
その私の目に、映ったんです。
楽しそうな友達グループ、家族、カップル、大勢の人人人。
みんな笑ってる。
みんな楽しそう。
みんな幸せそう。
(ナニコレ・・・・・)
(みんなあんなに楽しそうなのに、私は杖ついて、帽子かぶって坊主隠して、病院に帰ったらまた治療がはじまる。)
(ばっっっっっかみたい。)
さっきまでの楽しい気持ちなんて、もうどこにもなかった。
そんな気持ちのまま病室に帰って、廊下であっちゃんにバッタリ会いました。
「ちゃんと楽しんで来たか?」
そう声をかけてくれたあっちゃんに、
「全っっっっっ然。」
と、うつむいて返事をしました。
「なんで?なんかあった?」
すごく心配してくれたあっちゃん。
「だって・・・・・だって私、悪いことなんてなんっっっにもしてないじゃんっっ!!!!!」
「悪いことしてるやつなんていっぱいいんじゃんっっ!!!!!」
「私なんて・・・・・私なんて・・・・・」
「バレエずっと習ってたし!!!!バスケの選手で・・・陸上だって・・・足だってすごく早かったっっ!!!!!」
「こんな足じゃもう走れないっっっっっ!!!!!!!!!!」
そう言うと、私は声をあげてワンワン泣き出してしまいました。
すると、あっちゃんが、
「あー。そう思っちゃったか。」
「あるよ。あるある。」
「俺も思ったことあるよ。」
「なんで?走んなくていいじゃん、歩けばいいんだよ。」
そう言ってくれました。
私、その言葉を泣きながら耳にして
(え?)
って思ったんです。
(なんだ、そっか、走らなくていいんだ。)
って。
まるで、憑き物が取れたかのように、心がスッと軽くなったのがわかりました。
その、あっちゃんの言葉が私の人生を変えたんです。
これは、自分で選んで生まれてきた人生!
「走んなくていいじゃん。」
その言葉で心の目が覚めた私は、消灯後、病室のベッドの上でいろんなことを思い返していました。
そういえば、先生から骨肉腫だって言われたとき、驚きよりも絶望よりも何よりも先に
「あぁ、やっぱり。」
って思って、自分で自分に
「え?」
ってなったよね・・・・・
そういえば、小さい頃からテレビで『骨肉腫』って言葉を耳にするたびに、自分でも訳がわからないけど
「これは本っっっっっ当に怖い病気だ」
って心臓がバクバクして止まらなくてガタガタ震えるくらい怖かったってこと、何度もあったけど、他の病気の名前聞いても一切そんな風にならなかったよね・・・・・
中学生の時に漫画読んでて、今使ってるロフストランド杖をついた登場人物を見た瞬間、
「私、この杖にしよっ!」
って思ったよね・・・
その時、自分で自分に、
「え?」
ってなったよね・・・・・
そして、思ったんです。
(これって・・・・・)
(私・・・・・知ってたんじゃないの?)
って。
「これは選んで生まれてきた人生だ。私が選んで生まれてきた人生だったら、絶対に乗り越えられる。」
私の気持ちが、完全に切り替わった瞬間でした。
笑いながら吐く
そこからの私は、治療に対する姿勢が以前とはまったく変わりました。
(先なんて見えない。)
(治療する意味ある?)
(お母さんにそんなにお金払わせるほど私の命に価値あんの?)
そんな風に思っていた私が、
(あと治療終わるまであと○回!)
(よっしゃ!こいっ!)
そんな感じです。
友達にも、病気のことを言えるようになりました。
前向きになった自分に、自分がびっくりです。
しかも、抗がん剤の副作用でトイレで吐いている時すら笑ってるんです・・・・・
ちょっと危険なレベルの前向きさ加減でした。
「吐けば吐くほとゴールに近づく。フフフ。」
ってトイレにしがみつきながら笑ってました・・・(完全に危険です・・・汗)
完全に退院!
そうして、前向きに前向きに抗がん剤の治療を1回づつ乗り越えて、ついに全ての治療を終えて退院することができました。
退院する日、先に完全退院していたあっちゃんが病院に来てくれて、
「ほら。」
って、小さな四葉のクローバーのお守りをくれました。
24歳の5月、気持ちいい青空がどこまでも続く日でした。
骨肉腫克服!
退院したら、すべてが終わりという訳にはいきません。
定期検診で、肺に転移がないか、再発していないかをレントゲンでチェックしてもらいます。
定期検診が終わってホッとしたのも束の間、主治医の先生の「大丈夫だね。」の言葉を聞いた瞬間から、次の検診の日までずっと緊張していて、
(再発って言われたらどうしよう・・・・・)
(転移って言われたらどうしよう・・・・・)
心配が尽きることはありません。
夢で、何度も何度も主治医の先生から「また、治療やろうか。」って言われて飛び起きる。
その繰り返しです。
1ヶ月、3ヶ月、半年、1年、2年・・・・・毎日毎日その心配で心配でたまらない日々を積み重ね、やっとこぎつけた5年という区切り。
「僕たちは、”完治”っていう言い方はしないけど、これで、まぁ、もう大丈夫かな。」
主治医の先生からそう言われて、ついに骨肉腫を克服しました。
別れ
私が退院して数ヶ月後のある日、あっちゃんから
「やべぇ。胸にしこりがあるかもしれない。」
1通のメールが届きました。
サーっと血の気が引きました。
そして、すぐに電話しました。
「早くっっ!今すぐ先生のとこ行ってよっっ!」
半べそで言いました。
「再発した。」
そう、あっちゃんからメールが届きました。
私は、私には抗がん剤の治療回数を少なくしてくれなかったのに、あっちゃんには治療回数を少なくした先生に怒りをぶつけました。
先生だって、絶対に大丈夫だって確信があったからこそ、あっちゃんの退院を許可したのに、それを知った上でも先生が許せませんでした。
でも、あっちゃんは、生きることを絶対に諦めませんでした。
あっちゃんには、夢もやりたいこともたくさんあったんです。
私とは全然違って、いつもキラキラしていました。
いつも笑顔で夢を語るあっちゃんが、うらやましかった。
ある日、あっちゃんのお父さんから、ここ数日が山だってメールが来ました。
(イヤだ!絶対にイヤだ!!!!!)
受け入れられなくて、すぐにあっちゃんにメールをしました。
「私、すぐまた会いに行くし!あっちゃんのバンドのライブまた行きたいし!美味しいものだってあっちゃんとまた食べに行くし!」
って。
すると、夜の22時過ぎに、あっちゃんから返事が来ました。
「ありがたいね。」
それが、あっちゃんの人生最後に打ったメールでした。
長年つるんだ、あっちゃんを息子のように思う主治医の先生の当直の日に旅立ちました。
私は、あっちゃんに会いに東京へ行きました。
(あっちゃん、笑ってる。)
(もう、苦しくないんだ。)
でも、あっちゃんが旅立ったことが受け入れられなくて、涙なんて一粒も流れないんです。
(あっちゃんの名前の上に、”故”なんてつけんなよ。)
あんなにキラキラしたあっちゃんに『故』の文字はあまりにも不釣り合いでした。
そして、あっちゃんと同じ杖をついた人は会場で私、ただ1人。
(病院仲間だってすぐわかる。何であの人は生きてるのって思われる。)
(なんで、私じゃなかったんだろう。)
(やりたいことも、夢も、何もない私が生き残ってる。)
(私を家族のように思ってくれてるあっちゃんのご家族に私だけが生きているのが申し訳ない。)
呆然と立ち尽くす私の頭の中は、そんなことでいっぱいでした。
それから何年も何年も、顔は笑っているのに心は笑っていない。
時は流れていくのに、私の心はあっちゃんの亡くなった日に置き去りになったままでした。
だけど、ある日、リハビリの先生から言われたんです。
「もうさ、モルヒネ打ってる最後に近い時にね、病室に顔見に行ったんだよ。」
「そしたら、なんて言ったと思う?」
「『めぐちゃんのこと、すごく心配なんだ。よろしく頼む。』って、そうお願いされたんだよ。」
涙があふれて止まりませんでした。
(私、何やってんだよ。)
(苦しんでるあっちゃんに、最後まで心配かけて何やってんだよ。)
あっちゃんは、いなくなっても私を支え続けてくれてるんだって思いました。
「走んなくていいじゃん。」の言葉で前向きになれたのに、いつのまにか後ろ向きになっていました。
そして、自分を責めてばかりの日々を送っていました。
あっちゃんのおかげで、また、歩きはじめることができたんです。
そして今
私が骨肉腫の手術をしてから13年が経とうとしています。
今までに、形成的な手術は何度か受けましたが、骨肉腫による再発や転移はしていません。
「自分で選んで生まれてきた人生だ!」
その気持ちは、今でも色褪せることがなく、私が治療に立ち向かうことができるようになった大きなきっかけです。
もし、病気になってなかったら・・・という考えは、私の中にはありません。
だって、私の病気の経験は、私が強くなるために欠かせなかった出来事なんです。
治療中、病気を通して多くの人に支えてもらって、素敵な出会いがたくさんありました。
今でも、骨肉腫の経験を通して、たくさんの方と出会えたり、繋がることができるので、むしろ感謝の気持ちでいっぱいです。
どうしようもなく気持ちが腐ってた時も、立ち止まったまま何年も経過してしまったこともあったけど、骨肉腫という病気なくして私は語れません。
入院中、一緒に治療をしていた患者さんや、そのご家族の方のお話を聞いたりする機会がとても多かったんですが、
「話を聞いてくれて、本当にありがとう。」
「メグちゃんに出会えて本当によかった!」
「元気が出たよ!」
そういった言葉を、たくさんいただきました。
その時、必ずといっていいほど、生きている実感が湧いたんです。
(私にはやりたいことなんてない。夢もない。希望もない。)
そんな風に思っていた日々もありました。
でも、やっと、わかった。
私のやるべきこと、それは、私があの当時みんなにもらった勇気や根性や笑顔を、今度は私が何倍にも大きくして渡す番だって。
みんなが私に遺してくれた想いを大切に、生きていく。
だから、病気で苦しむ患者さん、そのご家族、友人、恋人、お話を聞いてほしいという方のためにカウンセラーになりました。
ご協力できることがあればお問い合わせページよりお問い合わせください。
相談でも雑談でも病気の方も元気な方もお気軽にどうぞ。